過ごし忘れた夏
ふまパラのDVDを見た。
去年行けなかったのがめちゃくちゃ辛くて悔しくて正直買うか迷った。
一昨年はインターンと被って行けなくて、去年は今年こそはと応募したのに落選して、その後狂うほど探したけど見つからなくて。
他人が絶賛すればするほど
苦しかった。
エモい夏ってなに?ふますとってなに?風磨とストンズの関係性ってなに?
共感できないのが本当に本当に悔しかった。自分だけ置いてけぼりな気がした。
でもこんな気持ちはただのエゴでしかなくて。
自分ってこんなに心が狭かったんだってびっくりした。気持ち悪いと思った。そんな自分が嫌いだった。引いた。
こんなに苦しむならいっそ積んでしまった方がよっぽど楽になれたのにってめちゃくちゃ後悔した。
けど
積んでしまったら罰があたりそうでそれも出来なかった。
絶対に積まないって自分で決めたルールは今年もまた破れなかった。
流れてくるレポにも、雑誌の公演レポにもまともに目を通せなかったし、公演期間が終わった後も風磨くんとストンズが絡むのがもはやトラウマになっていった。
映像化されたらわたしの体験できなかったあの夏はかたちになって残ってしまう。
毎朝本棚に並ぶDVDを見て、あーこれ行けなかったやつだって後悔するのかと思ったら買わない方が全然マシだと思った。
公演の存在を私の記憶から消そうと決めた。
DVD発売から3日が過ぎた。たまたまCDショップを通りかかったらサマパラがあった。いざパッケージを見てしまったらやっぱりあの公演見たかったなって思いが蘇ってきた。
自分の目で確かめたいーーー
風磨くんの表現する世界もそこでスト6人がバックをしてる世界も風磨くんとストで構築された世界もやっぱり自分の目で見たい気持ちは消えてなかった。
DVDを見たらもっと後悔してしまう気がして怖かった。
せっかく忘れかけてきたのにまたあの悔しい思いに駆られると思うと辛かった。
でも、今年のSixTONESのサマパラが始まってしまう前には見ておきたかったし、もし後悔しても来週には、今年の夏がやってきてくれるからどうにかなるかもしれないと思った。
むしろ見るなら今しかない。買うことにした。
ふまパラを見た。
…もっと早く買えばよかったと思った。
っていっても3日しか変わらないけど。
買うのを先延ばしにしなくてよかった。
買わないで記憶から消そうと頑張る方がよっぽどしんどいと思った。
心につっかかってたものが流れていった。
心がスッとした。
こんなに楽になると思わなかった。
不思議だった。
一昨年に引き続きザ風磨な構成と演出が広がっていて、というかパワーアップしてて、改めて風磨くんはオシャでエモな世界を作る天才だと思った。
そこにはストンズ6人もいて、のびのびしてて、バックを立派に担ってて、でもバックなようでバックじゃなくてそこにはきっと風磨くんとの関係性があって。
で、
北斗くんがめちゃくちゃのびのびしてて、
めちゃくちゃ自然に笑ってて
めちゃくちゃ楽しそうにしてて。
もうなんかそれが見れただけで良かったなと思った。
それが見れただけで幸せだと思った。
それだけでも
私は私なりに2017年の夏を取り戻せた気がした。
上手く言えないけど、
わたしが思ってた以上に
見れる と 見れない には大きな差があるみたいで、
生と映像にはそんなに差がないのかもしれない。
いや、やっぱり生と映像は全然違うけど。
そりゃ生で見れるに越したことはないんだけど、
映像の方がよりフラットに公演自体をみれるのかもしれないなだなんて、そんなことをふと思ったりした。
自分の思い出が一切ないからこそ、見れる景色もある気がする。
今更だけど、自分が行けなかった過去のものについてあまりにもあまりにも固執しすぎるのはやめようと、思うことができた。
行けなかったと思い続けることが一番自分で自分を苦しめていた気がした、気づかなかったけど。難しいけど。やっぱり思っちゃうだろうけど。
綺麗事を言うつもりはないんだけど、それでも結局、時は過ぎていく一方だし、結局わたしは今を今、全力で生きることしかできなくて。
そんな風に思えたのもこのふまパラだからかもしれない。
色んな意味で
風磨くんありがとう。
去年の夏が、去年の私が、やっと成仏できたみたいだ。